凡百ブログ

bonpyaku blog

凡百の人間による雑記ブログです。

ゲゲゲ忌によせて

f:id:bonpyaku:20181130125506j:plain


本日11月30日は水木しげる大先生の命日、ゲゲゲ忌です。もう3年になると思うと早いものです。

最近はゆるゲゲで毎日遊んでいたり、毎週日曜日にゲゲゲの鬼太郎を見たり、アマゾンプライムゲゲゲの女房(朝ドラ版)をゆっくり見返したりしているので、生活に水木しげるが溶け込んでいることになります。

 

個人的な思い出 幼少~中学

ゲゲゲの鬼太郎は日本のアニメ史上もっとも多くリメイクされた作品です(現在は6期が放送中)。各期の鬼太郎はそれぞれ放送された年代に合わせて60’s鬼太郎、70’s鬼太郎と呼んだり、一部のファンはそれぞれの鬼太郎演じた声優さんの名字をとって松岡鬼太郎、高山鬼太郎と呼んだりもします。

1960年代からおおよそ10年の間隔で放映されてきた鬼太郎は、幅広い世代から高い認知度を誇ります。1期の鬼太郎を10歳のときに見ていた少年少女は今や還暦を迎えていると思うとすごいですね。

 

僕は1991年生まれ。つまり、鬼太郎でいうと、4期(1996~1998)世代です。5歳~7歳の時に放映されていた訳ですね。しかし、4期世代ではあるものの、僕は鬼太郎をあまり見ていませんでした。妖怪が怖かったのです。

幼少期で鮮明に覚えている鬼太郎エピソードがひとつあります。あれは確か年中か年長の頃、保育園で4期鬼太郎の映画版「大海獣」が流されたのです。「大海獣」には鬼太郎が大海獣に変身するシーンがあるのですが、その描写が強烈なのです。手の皮がズルリと剥けて毛むくじゃらの手があらわれる、苦しみながら白目が赤く変わっていく・・・。

幼少期の僕には相当衝撃的なシーンでした。このシーンが鬼太郎=怖いという印象を決定づけたと思います。

最近アマゾンプライムで「大海獣」を見返したのですが、大人になってから見てもやっぱり強烈なシーンでした。放映中の6期鬼太郎の牛鬼回の変身も小さいころ見ていたら怖かっただろうなぁと思います。

こうして鬼太郎=怖い、妖怪=怖いという印象を持ったまま小学校にあがります。

 

小学校の図書室には水木しげるの妖怪図鑑(あまめはぎとかが表紙のやつ)がいくつか置いてあったのですが、ヨーカイザーやぬ~べ~が流行っていたこともあって、同級生たちに妖怪図鑑は引っ張りだこでした。妖怪が怖いということを隠したくて、我慢して友達と一緒に図鑑を見ていたのを覚えています。その中でもがしゃどくろや尻目など妖怪+人が驚いている絵が怖かったです。小学生にとって尻目は相当不気味ですよね。

妖怪=怖いの図式は崩れることなく、成長していきました。小学3年生の時に放送が開始された犬夜叉さえも妖怪モノだからと敬遠していた程でした。

犬夜叉以降は妖怪モノに触れる機会も少なくなり、年齢を重ねるにつれて妖怪=怖いの印象も薄くなっていき、中学校ぐらいには逆に興味のある分野に切り替わっていました。2005年(中2のとき)に公開された「妖怪大戦争」は楽しく見ていた記憶があります。興味がでてきたきっかけは思い出せないのですが、いわゆる中二病的な感性で、妖怪の怪しさや神秘性に惹かれたのだと思いますし、怖いが勝っていただけで妖怪への興味は人一倍あったのだと思います。

 

個人的な思い出 高校

高校の入学の年に鬼太郎5期(2007~2009)の放映が開始されました。妖怪への興味が出てきた時期ではありましたが、部活を理由に見ていませんでした。さらに5期の鬼太郎の方向性が気に入らなかったのもあると思います。大人になった今でこそ5期鬼太郎を好意的に見ていますが、当時は怖くない明るい鬼太郎なんか鬼太郎じゃない!などと生意気にも思っていました。さらには、鬼太郎やその他の水木作品は子供向け妖怪マンガで高校生には不釣り合い!などと思っていたような気がします。若気の至りですね。

そんななか、実家に転がっていた京極夏彦の「姑獲鳥の夏」を読み、その面白さにはまって、百鬼夜行シリーズを読みはじめました。「魍魎の匣」、「狂骨の夢」と読み進めるうちに自然な流れで、作者の京極夏彦にも興味が出てきます。そして当然ながら水木しげるの影響力を目の当たりにするのです。

すごいと思っている人がすごいと思っている人=めちゃくちゃすごい人という簡単な図式で、水木しげるが自分のなかで祀り上げられていきました。単純な高校生です。

そんなさなかに墓場鬼太郎(2008)の放映が始まります。これが本当の鬼太郎、原点の鬼太郎という煽りは水木神を崇拝しはじめた高校生には抜群の文句でした。

当然全11話を視聴。OPのモノノケダンスと映像は最高です。今にして思えばきちんと鬼太郎を視聴したのは墓場鬼太郎が初めてという、珍しいタイプの妖怪好きということになります。

 

個人的な思い出 大学

某大学に入学。デザインなどを制作する学科だったので、妖怪をモチーフにした作品をいくつか作りました。いつしか妖怪好きがアイデンティティとなり、妖怪の作品を作る人という認識が学科ではあったと思います。アルバイトをはじめたので自由に使えるお金が増え、少しずつ水木しげる作品や妖怪関連の本を買い集め、境港の水木しげるロードにも行きました。このころに「河童の三平」や「悪魔くん」、「のんのんばあとオレ」、「総員玉砕せよ」など鬼太郎以外の水木作品に触れました。すっかり水木しげるの虜です。

卒業制作では妖怪をモチーフに作品作りをしました。最後まで本当に妖怪尽くしの4年間だったと思います。

 

個人的な思い出 就職~現在

就職をして2年目となる2015年の11月30日のお昼、営業用の車を運転しているときでした。普段は好きな音楽をかけているのですが、この日はなぜだかラジオを聞いていました。そんなたまにしか聞かないラジオから「ゲゲゲの…」という声が。

その一瞬で嫌な胸騒ぎがしました。続く言葉を聞いて自分から「えっ?」と気の抜けた声が漏れたのを覚えています。

 

水木しげる 死去 享年93歳

 

一読者としてしか関わりのない自分にとっては、水木しげるの生死はそんなに気にすることではないと思っていました。新刊を追っていたわけでもなく、テレビなどで日頃からその姿を目にするわけでもないので、亡くなっても何ら変わりがないと。

そう思っていたはずなのに。言葉に表せない喪失感がありました。

水木しげる死去のニュースはまたたくまに広がり、ツイッターでは、

「この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要ないよ」

のコマが多くの人の目に触れたようでした。

 

水木しげるはこの世を通過していきました。様々な宝物を残して。

 

 

おわりに

ゲゲゲ忌ということで、水木しげるについて個人的な思い出を振り返ってみましたが、やはり大きな人でした。水木しげるがもしも南方で亡くなっていたら、漫画家をやめていたら、今の自分は、日本はどうなっていたのでしょうか。

妖怪文化を、鬼太郎たちを、なにより自分にはない価値観を残してくれてありがとうございます、という思いでいっぱいです。

今日もゆるゲゲで遊んで、日曜日には鬼太郎を見るぞ!

ありがとう!水木先生!